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天狗小僧の帰還
文政3年(1820年)の秋、天狗小僧と呼ばれたひとりの少年が脚光を浴びました。天狗の世界に誘われ、何年もの間そこで過ごした少年が戻ってきたというのです。その少年、寅吉の語る異界の様子は驚くべきものであり、多くの人々がその情報を求めて彼の話を聞きにやってきました。平田篤胤(ひらた・あつたね)もそのひとりです。寅吉15歳、平田45歳のことでした。
平田篤胤という人
江戸後期の国学者。幼名正吉。号は大角,気吹之舎(いぶきのや)など。秋田藩の大番組頭,大和田祚胤(おおわださちたね)の四男として久保田城下に生まれる。1795年(寛政7)20歳のとき脱藩して江戸へ出,仕事を転々として生計を立てながら苦学,1800年備中松山藩士平田篤穏(ひらたあつやす)の養嗣子となった。03年ごろ本居宣長の著書に接して感激し,夢の中で宣長から死後の門弟たる認可を得たと称して,05年(文化2)本居春庭に入門する。この間,《呵妄書(かもうしよ)》(1803)を著して太宰春台に反論し,《鬼神新論》(1805)を書いて有鬼論(《鬼神論》)を唱えるなど,後年の独特な学問体系の基礎をかためた。11年師と仰ぐ宣長の学問にふと疑念を抱くという一種の回心を経験したことから,《古史成文》を斤し,《古史徴》の草稿を作り,《古史伝》に着手するなど,師説とはまったく異質な篤胤学の形成に努力を傾注した。国学をいちじるしく宗教化し,宇宙開闢論,幽冥信仰,因果応報思想などを取り入れて,平田神道ともいわれる神秘的な神学体系を作り上げたことに特色がある。そのために宣長学の文献実証主義からは大きく逸脱した。その精力的な活動に猜疑の眼を向けた徳川幕府は,41年(天保12)江戸退去と著述禁止を申し渡し,郷里の秋田に帰った篤胤は,失意のうちに68歳で世を去った。門人約550といわれる平田学派が,幕末の思想運動に与えた影響は無視できない。上記のほか,おもな著作に《本教外篇》《仙境異聞》《霊能真柱(たまのみはしら)》など。
(平凡社大百科事典による。マーキングは引用者)
これだけ読むと、この人は、かなりエキセントリックというか、トンデモ系、ある種イッちゃった人のようにも思えなくもありません。《霊能真柱(たまのみはしら)》は岩波文庫で読めます。宇宙の成り立ちを神道の立場からオカルティックに描いた奇書。興味のある方はこちらもどうぞ。
「仙境異聞」の成立
神、天狗、妖怪、仙人、異界といった「あちらの世界」に人並み以上の関心を持っていた平田篤胤が、寅吉の出現に興味を惹かれないはずはありません。友人からその話を聞くや、直ちに彼の元へと足を運びます。そして、天狗小僧はのっけから彼を驚かせたばかりか、ありとあらゆる分野にわたる質問に答えるという形で語られる異界の情報は、聞けば聞くほど彼の考える「異界」の姿に合致するものであるとの確信を深め、平田にとって寅吉はまぎれもなく異界が存在することの生き証人となったのでした。「仙境異聞」はこれらのインタビューとそれに基づいた調査をまとめたものです。

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