| 寅吉、山へ帰ろうとすること | ||
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その夜はもちろんのこと、翌日十三日の夜も門人達は顔を合わせれば寅吉の噂ばかりしていた。間もなく山に帰るとのことなので、その前に笛を作らせなければと私も焦っていた。私自身は音楽について詳しいわけではないし、むやみに珍しい物を集める趣味もない。幽界(※仙界)にもこういうものがあると世間に知らしめ、研究の端緒とし、ひいては仙界の存在の証となればと考えたのである。 だが、美成は寅吉が我が家を訪れることをひどく惜しんでいる様子である。笛はこのまま作られずに終わるのかとため息をついていた私を健雄と稲雄が心配してくれていたらしい。住み込みの門人達は毎朝私のところに顔を出し、挨拶をするのが慣例となっているのだが十四日の朝はふたりとも姿を見せなかった。どこへ行ったのだろうと思っていると、午前九時頃に帰宅した。 「一体どこへ行っていたのだ?」 「先生が『笛のできないのが残念だ』と嘆くお声を耳にし、われわれも同じ心持ちでおりましたので、ふたりで何か妙案はないものかと相談しました。寅吉の母、兄などに事情を尋ねたところ、美成のもとに寅吉がいることすら知らぬ様子でした。であれば、美成は寅吉の主ということにもなりませんから、寅吉の母と兄の許しを得て正式に寅吉を先生の家に呼ぶことにしようと考えたのです。 今朝早く寅吉の実家へ行き、兄の荘吉を美成の家にいる寅吉に会わせ、用があるから実家に帰れと言わせたのですが、寅吉は実家になど帰るものかとそれを断ってしまいました。荘吉も私たちも仕方なく帰ってきた次第です」 と、そこへ毎日やってくる大工がちょうど来合わせた。 「先生、ついいましがたこの門前を例の小僧がひとりで七軒町の方へえらい勢いで駆けていきましたぜ」 「なんだって!」 ふたりはすぐさま表へ駆けだし、寅吉の後を追った。寅吉が半町ほど先を走っていたところをようやく追いつくことができた。 「おいおい、どこへ行くんだい?」 「今から山へ向かう。その前に急ぎの用があるので実家に向かうところだ」 ふたりは驚いた。 「ちょっと先生のところに寄っていかないか。みんな君の来るのを楽しみにしているんだ」 「そんな暇はない。手を放してくれ」 ふたりは嫌がる寅吉の腕を左右から取って、我が家の入り口までなんとか引っ張ってきて事情を告げた。 「山に入るのは十一月の末までということではなかったか? どうしてそんなに急いでいるのか?」 「突然事情が変わって今日急いで出発したくなった。ついては入山の際には必ず持参するようにと師匠の命を受けていた手形を実家に取りに行かなければならない。頼むから放してほしい」 あきれて寅吉の顔を見ると、すっかり色を失っており、ただごとではない目つきである。だが、笛を作らぬまま行かせるのが残念で、そのことを告げた。腕を押さえている健雄、稲雄は、 「まあまあ、岩笛でも吹いて気を落ち着けるのが先決」 などとなだめるのだが、まるで耳に入らない様子である。むりやり振り払って走り出そうとするので、ふたりして抱き上げると寅吉も困った様子でこういった。 「わかった。すぐ笛を作る。作るからすぐに帰してくれ。それにしても実家の手形のことが気がかりなので、まずそれを取りに帰りたいんだが」 「それなら俺が代わりに取りに行ってくるよ」 稲雄が言った。 「いや、俺でなければ分からない」 「じゃあ、一緒に行こう」 稲雄、健雄が寅吉の後に続いた。 実家に着くと、寅吉は母と兄に山へ立つと別れを告げた。兄は泣いた。母親はいさぎよく、 「まあ、よくよくわがままに生まれついたんだねえ」 と、肌着、ふんどしなどを手早く包んで持たせようとしたが、寅吉は受け取らなかった。 「山では服を重ねて着ることはない。同じ物をふたつ持ってはならないという掟もある」 寅吉が例の手形をふところにしたところで、兄は別れの杯を交わそうと杯を差し出したが 「つまらんまねを」 と、寅吉は見向きもしない。健雄、稲雄に、 「さあ、行こう」 と声をかけてあっさり実家を去った(この手形がどういうものなのか気になって、後で見せてもらったところ、白石丈之進が寅吉に授けた通行手形だった。これを大切にする理由は既に述べた)。
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